西川 祐信「絵本常磐草」より
江戸の中頃までは日髪
守貞漫稿(喜多川守貞著)より
『寛政の写本「思出冊子」に云ふ、女子宝暦までは日髪なり。その比(ころ)髱差(たぼさし)出来、程なく止み、灯籠鬢(とうろうびん)流行り、鬢差(びんさし)を用ひ持髪(もたせがみ)となる。日髪と持髪と半々なり。近年張りぬき髱入出来、油多く付け幾日ともなく持髪にするより、女髪結と云ふ者出来、朝鮮櫛笄以前よりあれども鬢差と同時より専用となり、今は水櫛は名のみにて、陶器の鬢水入も売る家なし、云々。守貞云ふ、日髪は日梳き、持髪は一梳き数日を保つを云ふ。』
『守貞謾稿(もりさだまんこう)』は、江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗・事物を解説した風俗誌的随筆。江戸後期の風俗を知るうえで貴重な資料です。
この記述によると、宝暦(1751〜1764年)頃まで、女性たちは毎日髪を結い上げる『日髪』だったようです。燈籠鬢が流行した頃から、一度の結髪で何日か保たせる『持たせ髪』にする人と、日髪の人とが半々になったとのこと。宝暦といえば、江戸時代の半ばを少し過ぎた頃。その頃まで、女性たちはみんな毎朝 髪を結っていたのですね。その頃はどんな髪型だったかというと…
歴世女装考(江戸後期 岩瀬百樹(山東京山)著)より
右上:慶長十八年(1613)、右下左:天和三年(1683 )、左下:天和四年(1684)、右下右:元禄元年(1688)、左上:享保八年(1723)
『歴世女装考』の挿絵がわかりやすいのでご覧ください。右頁中段の横兵庫の図以外は、すべて宝暦以前の絵を写したものです。髷(まげ)の形は様々ですが、どれも髱(たぼ)が後ろに長く伸びています。
鬢差し(びんさし)が登場し、横に広がった鬢が流行するまでは、「鴎髱(かもめづと)」に代表される長い髱が主流でした。この時代の髪の特徴は、鬢が独立していないこと。結い方は記録として残っていないので正確なことはわかりませんが、基本的に現代のお相撲さんの髪と同じです。(種類によっては違うものもあります)
●長い髱の結い方
頭頂でゆるみを持たせて結ぶ
(前髪を作る場合は取り分ける)
結んだ根を後ろへ持っていき、
髱をたるませる
櫛で全体の形を整える
髱差しで髱先を上げることができる
複雑な結髪ゆえの持たせ髪
宝暦・明和になると、京の祇園で流行りだした「燈籠鬢」が一般にも広まり、京坂では安永末頃まで、江戸では天明頃から寛政末〜享和頃まで流行しました。
燈籠鬢はそれまでの結い方と違い、鬢を別に取り分け、各パーツの髪を集める土台となる根が必要です。この根を取る結い方は結髪のバリエーションが広がる分、複雑で手間がかかります。その頃は女髪結いが登場した時期でしたが、まだまだ結い賃が高く、民間の女性は頻繁に髪結いを頼むわけにもいきませんでした。そのため、一度結ったら数日保たせる「持髪」が始まったのでしょう。地毛で日本髪を結う現代の舞妓さんも、一度結うと4〜5日保たせるそうです。当時もその位の間隔で結い直していたのかもしれませんね。
●先に根を作る結い方
前髪・鬢・髱を取り分けて、
根を作る
後頭部の毛を根に合わせて 髱を作る
顔の横の毛を根に合わせて 鬢を作り、同様に前髪を作る
根でまとめた髪で髷を作る
ちなみに、洗髪したり、髪を梳いて汚れやフケを取った後、本格的に結い直すまで一時的にまとめておく髪型を、京坂で「梳き髪(すきがみ)」と言います。これらは仮結いの髪型ですが、好んで日常的に結う女性もいました。上品とは言えず良く思われない向きもありましたが、悪女的な魅力もあり、一部の女性の間で流行しました。江戸の「櫛巻き」「じれった結び」なども梳き髪の一種です。技巧的な髪型が多い中、シンプルで簡単に結えるというのも魅力だったように思います。
「当世かもじ雛形」より
すきあげ髪に こたひつと
「当世かもじ雛形」より
くし巻のばらけ髪