歌川豊国「春雨豊夕栄」
女髪結いの登場
江戸時代中期に女髪結いが登場するまでは、「自分の髪は自分で結う」または「家族に結ってもらう」のが普通でした。「あんな複雑な髪型を自分で?」と思ってしまいますが、自分で結えるということは、一人前の女性としての資格であり、嗜みとされていました。華やかな髪型の遊女や芸者も、基本的には自分で結うか、仲間内で結いあったりしていたようです。
「女髪結い」という言葉が最初に登場したのは、江戸中期の上方(かみがた/大坂・京都を中心とする地域)でした。寛延元年(1748)、京の組粂太郎座上演「けいせい紅葉軍」の狂言で、中村富十郎が「女髪結おつけ」を演じています。この当時、女の髪結いが居たという記録は残っていませんが、女髪結いが誕生して珍しさから話題になり、芝居に取り入れられたのではないかと推測できます。
また、浜松歌国著『南水漫遊』(江戸後期)五の巻には、「女の髪結といふもの、近世盛んに成れり、其初めは、明和のはじめ江南俳優家の金剛と呼びなすものの妻が、妓婦の髪を結びしより始れり、享保十二年未正月、竹本座のあやつり敵打未刻の太鼓下の巻に、なんぼ大阪じやといふて、姫ごぜの髪ゆひと男の取揚婆(とりあげばば)はござんせぬ と書きたりしに、四十年も過ざるうち、男の取揚婆(産婆のこと)は知らず、女の髪結ひは出来ぬ」とあります。この本によると、明和初期(1764年〜)、大坂に住む歌舞伎俳優の金剛(俳優の身辺雑用を勤める男性、現在は男衆と呼ばれる)の妻が、芸者や遊女の髪を結ったのが最初だということです。
初めの女髪結いが誰だったのか、確かな事はわかりませんが、当時は鬢はり(鬢刺し)が考案され、横に広がった鬢(びん)が流行し始めた時期。寛延初年の「けいせい紅葉軍」上演後の宝暦頃、京の祇園で燈籠鬢が誕生したことから、女髪結いの登場がこうした技巧的な髪型を生み出したと考えられます。また、流行を追う女性たちが、美しく髪を結う職人を必要としたことも、女髪結の登場に繋がったと言えるでしょう。
さて、始めの頃、髪結いを頼むのは遊女や芸者といった人々でしたが、その存在が知られるようになると次第に一般女性にも普及していきました。当時の戯作「浪華名物富貴地座位」(1777年)に「富てせわしきものは、虎屋の饅頭切手、竹田のからくり、女の髪結」とあり、大いに繁盛した様子が窺えます。とはいえ、長い間「自分で結うのが女の嗜み、他人に結わせるのは恥」とされてきたこともあり、この頃はまだ悪風俗と言われ、茶屋もの、浮かれ女などと呼ばれる女性が主な顧客でした。
江戸の女髪結い
上方から少し遅れて、安永(1772〜1780年)の頃、江戸にも女髪結いが登場しました。
「近年女かみゆひ行れてより。或は月極メ。或はあるひはふり。ふりの本結は弐百に極る。本多は百に。なで付は五十。」(当世気とり草/安永二年刊)
「江戸にて女髪結は、安永七年頃、深川茶屋むきにて、上方風の髪ゆふ女ありしが、其後所々に女かみゆひ出来れり、…」(嬉遊笑覧)
「安永の末、山下金作といふ女形下り、深川の栄木といふ所に住、此者のかつらつけ(かつらの髪結なり)、仲町の妓に通じたりしに、或日此妓の髪を金作がかつらの様に結ひけるを妓輩うらやみ、謝物を贈りてゆはせける。」(蜘蛛の糸巻/三東京山)
山下金作は女形であって女性ではありませんが、一度の髪結賃を二百文として、芸者の髪結い専門となりました。その後、甚吉という弟子ができ、髪結料を百文としたので「百さん」と呼ばれたとか。この、甚吉は生まれつき声が非常に美しく、女性的な男性であったそうです。彼は女の弟子を持ち、女髪結いの師匠となりました。その弟子がお政です。
「寛政の初め(1789年〜)は、女髪結と云ふもの至て稀なり、堺町近辺の三光新道に、下駄屋のお政とて、髪結銭百銅にて結しも、今は類多き故か十六銅にて結ふも有とぞ、…」
この当時は女髪結いが少なく、結い賃も高いため、顧客は主に遊女や芸者などで、一般の素人女性はまだ女髪結いを使いませんでした。ですが、美しく髪を結いたいのは、どの時代の女性も同じ。悪風俗と言われながらも需要はどんどん増えていき、女の髪結いが乱立するようになります。その結果、結髪料は五十文、三十二文、二十四文と値下がりし、一般の女性も支払える金額になっていきました。
その後、寛政の改革の一環として、女髪結いに対して弾圧が加えられますが、文化・文政という江戸文化の爛熟期を迎えて、女髪結いはますます繁盛を極めました。
*江戸中期の一文は現代のお金に換算すると約25円、後期は約20円、幕末は約7円ほどの価値でした。