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楊洲周延

「千代田之大奥 おさざれ石 」 楊洲周延

武家の垂髪と結髪

 江戸時代初期、武家の女性の間では後ろで結ぶ垂髪に加え、民間でも流行した「根結いの垂髪」が結われるようになりました。これは髪を頭頂で一束にした下げ髪で、後にこの結髪方式から御殿女中の「片はずし」「下げ下地」「吹き輪」などの髪型が生まれます。これらは公式な場に垂髪(下げ髪)で臨まなければならない御殿女中が、日用の便宜のため髪を仮にまとめておき簡単に戻せるよう考案された髪型でしたが、次第に御殿勤めの正式な髪として認められていきました。

 中期に入る頃、公家の「葵髱」が伝わり「椎茸髱」と呼ばれるようになりました。この特徴ある髱は、この後「片外し」と共に御殿女中の代名詞となります。

 このように大奥はじめ大名家の間で独自の結髪風俗が発展する一方、武家の中でも一万石以下の旗本の結髪は民間様式を取り入れたものでした。髷は武家風でも、髱はその時々の流行、又は髷髱とも全くの町風という家もありました。

●江戸時代初期〜中期頃のおすべらかし

 初期の大奥や大名家の女性の正装の髪は、公家と同じく長かもじを付け、絵元結や水引などを結ぶ形式の「大垂髪(おすべらかし)」でした。室町将軍 足利義政の頃の書「大上臈御名之事」によると、このおすべらかしは地髪に長かもじを継ぎ、入元結(絵元結い)、水引で二箇所、 ひつさき(小引裂)で三箇所結ぶなどしたもので、時代が江戸に移っても同じ髪風が続いたものと思われます。この髪は公式の場に臨む時のもので、平時は長かもじを付けず結んだだけの垂髪や、根結い垂髪、片外し、その他の髷を結ったようです。

化粧眉作口伝
化粧眉作口伝

長かもじの図「化粧眉作口伝」より 水嶋卜也 著 江戸時代前期

武家
西川祐信

根結い垂髪「女重宝記」より

元禄5年(1692)

「百人女郎品定」より 西川祐信 画 享保8 年(1723) 

奥方は垂髪か玉結び、大名の姫は根結いの垂髪、髱は鴎髱

●片外し

 この髪型は、下げ髪を前にたわめて輪を作り、根の前に挿した笄の前から右下へ髪をくぐらせ、根の上を左へ渡し、下から上へ笄をくぐらせ、二の輪という輪型のかもじを使って毛先を笄に巻き留めるというものです。(右図参照)初めは下げ髪を一時的にまとめておくための仮結いでしたが、後に御殿女中の正式な髪型として認められるようになりました。

 「片外し」は御殿女中の代名詞と言える髪型ですが、誰もが結えるわけではありません。明治25年に出版された「千代田城大奥」によると、お目見え以上(将軍と御台所への目通りを許されていた上級の女中)と、お目見え以下ではお三の間だけがが平日に結うとあります。御台所も平日は片外しに結ったそうです。大名や旗本でも基本的に同じでしたが、家格や家風によって違いがあったようです。

片外し

片外し 「御殿女中」三田村鳶魚著 より

●椎茸髱

 『ある老女の物語にご奉公せし比(ころ)京都より下れし女中方の髪を葵たぼとて名もおもしろく見付きもよきゆゑ朋輩しゆうつしゆひけるが、今はいづかたにてもゆはるるやうになりしは名もめでたきゆゑなるべしと語りき。比(この)老女貞享二年の生れなり。是を今の俚言(りげん)に椎茸たぼとは髪の黒きを乾(ほし)たる椎茸に準(よそへ)つらんが見立もあしく名もいやしげなり。あふひたぼにてこそよけれ。』(「歴世女装考」に「寝覚草」より引用)

椎茸髱

椎茸髱「都風俗化粧伝」より

 京都から下った公家の女中方の「葵髱(あおいづと)」を、武家の女中達も同じ様に結い広まったが、その趣きある名が「椎茸髱」という卑しげな俗名で呼ばれる様になったと嘆いています。この老女は貞享二年生まれということなので、伝わったのは宝永から享保の間頃でしょうか。この髱は「長髱(ながづと)」「割髱(わりづと)」とも呼ばれました。

 御殿女中の代名詞でもある「椎茸髱」ですが、近世風俗志(守貞漫稿)に「万石以下俗に旗本と云へる武家も髷は上輩片外し、下輩は島田崩し等なれども、鬢髱は市間の婦女と相似て葵髱のごとく扁平にあらずして、古の鴎髱の類か。」とあり、一万石以下の旗本の家では結われず、大奥や大名の奥向きに勤める女性のみの風俗だったようです。

御殿女中
椎茸髱 片外し

歴代風俗寫眞大観(昭和6年発行)より 江戸幕府御殿女中風俗(片外し・椎茸髱)

●江戸時代後期のおすべらかし

 後期に入り、武家の女性の正装である「おすべらかし」は、「お長下げ(お長)」と呼ばれる形になりました。これは、公家のおすべらかしが全ての髪を背中に下げて髱をつくらないのと違い、髱は椎茸髱にし、髪は頭の後ろで一束にして長かもじを継ぐというものです。長かもじに掛ける水引や絵元結も、公家とは違いがありました。これは御殿女中の儀式の時の髪型で、日常は長かもじを外して「下げ上げ」「片外し」などにしていました。

 「お長下げ」を結うのは、上臈御年寄・御年寄・中年寄・御客応答(おきゃくあしらい)・中臈・御小姓・御錠口・御次頭・御祐筆頭・呉服の間頭・お三の間頭で(諸説あり)、それ以外のお目見え女中は「中下げ」(中かもじを用いる根結い垂髪)、お目見え以下(お三の間を除く)は紅葉髷(もみじわげ)、志の字がえし、島田、ちょんぼりづとなどを結いました。これらの決まり事は他の大名家でも大方は同じでしたが、時代や家風によって若干の違いがあったようです。

おすべらかし

シーボルト「NIPPON」より

長かもじ

長かもじ・絵元結・かもじだとう

「御殿女中」三田村鳶魚著 より

おすべらかし

おすべらかし(お長下げ)

「御殿女中」三田村鳶魚著 より

御台所のおすべらかし

武家のおすべらかしは「お長下げ」ですが、正月三ヶ日に限り御台所と息女は公家風のおすべらかしを結いました。これは代々の御台所が宮家・公家の出身だったためと思われます。永島今四郎・太田贇雄 編「千代田城大奥」には「おスベラカシは正月三ヶ日に御台所之れを結ふ お長は三ヶ日以外の式日に於いて御台所之れを結ふ」とあります。また、三田村鳶魚著「御殿女中」には、「御台所がオスベラカシの時に、御中臈が二人だけ髪を同型にする。」「御中臈はオスベラカシにするのを迷惑がったものです。形が似ているので、お杓子という仇名をつけていました。」とあり、御台所のおすべらかしが女中たちと違うことを記しています。

「旧事諮問禄」の12〜15代将軍の大奥に仕えた女性の回想に、元日の御台所の様子を「元日は白綾の御装束下でございます。大うちき(袿)に緋の袴でございます。檜扇を持って、御髪は元服後はすべらかし(垂髪)というのでございます。毛が下がって、びんづら(鬢頬)というので、それが御台様の元日の御様子でございます。御冠はないのです。」と述べています。これらの記録から推察すると、大すべらかしではなく「お中」だったと思われます。この記録によると、普段の御台所は「片外し」「花笄一本」だったそうです。ただ、14代将軍家茂の御台所 和宮のみ、普段は「童(わらわ)」、総触の時は「下下地(さげしたじ)」との記述があり、日常も公家風を通したことが記されています。

和宮

降嫁するときの和宮親子内親王と伝えられる写真

髪型は「わらわ」

(旧・小坂憲次所蔵)

「旧事諮問禄」とは:旧幕時代の制度の実情が忘れ去られてしまうことを危惧した史学会会員の有志が、明治24年に旧幕府の役人を招いて10回にわたって行った聞き取りの記録。

*「びんづら」とは:「下げびんづらは鬢の髪を筆の軸ほどに結いて両方へさげたるなり。」(平家物語證注中 著者: 御橋悳言)

●おまたがえし

御台所が懐妊して着帯の儀式を行うまで結う髪型。正月の七草までに精進日(歴代将軍の命日や東照宮に参拝する前日)がある時は、御次、御三之間の者が一人ずつ結うこともありました。勝山と似ていますが、髪の先を輪の下で笄に千鳥がけする点が異なります。笄は花笄を用いました。

●下げ上げ

三田村鳶魚著「御殿女中」の記述によると、お長下げの時に長いかもじが不便な場合、長かもじを取りはずし地毛だけにして、「さげあげ簪」という耳掻きのある花のついた鼈甲の簪にぐるぐると髪を巻き付けたということです。この「下げ上げ」も実は「下げ下地」(下げ髪の下地、すぐに下げ髪に戻せる髪型)で、簪を抜けばすぐに解けますが、お長下げに戻すには長かもじを付け直す必要があり、多少の手間がかかったと思われます。公家にも「下げ上げ」はありましたが、全く違うものでした。

●下げ下地

大名などの奥方や娘が結った髪型。片外しや吹き輪は髻(もとどり)を上に撓めますが、「下げ下地」は下へ撓めて輪を作り、毛先を笄に巻き留めます。下げ髪の下地という意味で、笄を抜けばすぐに下げ髪になりました。

また、これとは別に、根に小判型の桐の小枕を入れ、その髪の裏へ染紙を張り付け根元から右へ回して輪を作り、輪の中に綾取らせた毛先を鼈甲または銀平打ちの簪で縫い止めるという説が「千代田城大奥」に見られます。これも同名の公家のものとは結い方が異なります。

●志の字かえし

「志の字」「島田崩し」とも言い、(「御殿女中」に、田安家では「しのまき」と言ったとある)末の女中(おすえ)の髪型。御本丸大奥では、直奉公の女中ではなく、その女中たちに使われている者(又者)の髪で、御年寄以下、御次、御三之間までの者に使われている女中が志の字に結いました。(それより下位の者に使われる者は「ちょんぼり髱」) 髱は椎茸髱にし、根に合わせた前髪の末毛を堅油で固め右の髱に張り付かせます。根で纏めた髪を折り返して一を作り、残りの髪を笄に十字に巻き、染紙に髪を貼り付けたものを前後から引き込み鬢付け油で固め、根に掛けた元結の両端を上に引き出すというものでした。

●もみじわげ

直奉公の女中の中で下級の者(御使い番、御仲居、御火之番、御末頭など)の髪型。志の字に似ていますが、一がねじれていて、笄に掛ける髪を千鳥がけにしません。髷は公家の下げ上げと同じ形だったようです。

●ちょんぼり髱

又者の中でも志の字を結う者より下位の女中の髪。髷は志の字とほぼ同型ですが笄に千鳥がけしないところが異なります。髱が椎茸髱ではなく、小さい髱を中央から出した形から「ちょんぼり髱」と呼ばれます。

●吹き輪

幅の狭い勝山と笄髷を合わせたような髪型。大名などのやや年長の娘(お歯黒はしても眉はまだ剃らない)が結いました。結い方は片外しとほぼ同じで、下げ髪を髻の前に曲げて輪を作り、毛先を根の前に挿した笄の右下へ前からくぐらせ左に渡し、笄の左下をくぐらせて前へ回し、再び右下をくぐらせ笄に巻きつけますが、片外しが左に大きく偏っているのに対して、吹き輪は髷の背が中心に位置する点が異なります。髱は椎茸髱で、花笄を用いました。

*髪型は、幕府・各大名家によって多少の違いがありました。

御殿女中

おまたがえし

「御殿女中」三田村鳶魚著 より

御殿女中

下げ上げ

「御殿女中」三田村鳶魚著 より

御殿女中

志の字​かえし

「御殿女中」三田村鳶魚著 より

御殿女中

ちょんぼりづと

「御殿女中」三田村鳶魚著 より

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