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「婦女遊楽図屏風(松浦屏風)」(左隻) 大和文華館蔵

垂髪から結髪の時代へ

 平安から鎌倉・室町時代まで、約700年の長きにわたり、女性の髪型は自然に垂らした『垂髪(すいはつ)』でした。身分の高い女性は髪を長く伸ばし、丈なす美しい黒髪は美人の条件とされました。一方、庶民の女性は背中や腰ほどの長さが一般的だったようです。仕事をする時は、必要に応じて、結ぶ・巻き付ける・布で包み込むなど、労働環境に応じて動きやすいように工夫をしていました。

 

 女性の髪風俗が大きな変換期を迎えたのは、安土・桃山時代。それまでは背中や首の付け根あたりであった結び目の位置が上がり、ポニーテールのような形の『根結いの垂髪』が登場しました。日本髪の原型ともいえる『唐輪』が結われ始めたのもこの時期です。『唐輪』は元は男の子の髪型でしたが、動きやすく便利なため、女性も結うようになったと考えられます。この髪型が進化して『兵庫髷』となっていきました。

 

 一方、公家や武家の女性は、江戸時代に入っても中世以来の垂髪を踏襲。髪を肩のあたりで緩やかに束ね、長かもじを添えて絵元結、水引などで結ぶ古式ゆかしい風俗が続きました。また、武家の女性の間では、『根結いの垂髪』も結われました

唐輪髷  からわまげ/天正〜寛永初期

16世紀末の天正(1573-92)頃から結われはじめた、結髪の原型とも言える髪型。中国風の髷のため「唐輪」と呼ばれたと考えられています。

頭上で髪の輪を作り、余りの毛を根に巻きつけたもので、元は男児の髪型だったものが、動きやすいため女性にも結われるようになったと思われます。

この頃はまだ鬢付け油が開発されておらず、輪の部分は自然にいくつかに別れていました。

江戸時代初期に上方の遊女たちや歌舞伎役者の間で流行。

この唐輪髷が進化し、「兵庫髷」となっていきました。

「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」

(部分)滋賀県・彦根市所蔵

根結い垂髪  ねゆいすいはつ/桃山時代〜江戸前期

後頭上部で髪を一束にした垂髪。民間では、初期の頃は前髪を切り垂らし、根を白元結で結ぶのが一般的でした。髱は引っ詰めた状態、または自然なたるみがあるくらいでしたが、江戸前期には吹き前髪(ふくらました前髪)、長く伸びた髱が備わりました。

武家では、この髪型が後の「片外し」「下げ下地」「吹き輪」などに発展していきますが、結髪の風習が定着した後も正式な場では根結いの垂髪を結いました。民間でも寛文頃までは、正月や五節句等の祝いの日、神仏参詣の時は下げ髪にしました。

玉結び  たまむすび/江戸時代初期〜前期

「扇舞美人図」 寛文年間頃

(部分)WESTON COLLECTION

下げ髪の先を輪がねて結んだ髪型で、結び方が簡単なため、一般女性から上流階級まで広く結われました。

下級層は輪を大きくし上方で結ぶのに対し、上流社会では輪を小さくし下方で結い平元結を掛けたので、一見して身分がわかったと言われています。

民間では貞享(1684-1687)頃に流行。元禄(1688-1704)末頃に廃れましたが、地方ではその後も長く結われました。

初期の兵庫髷  ひょうごまげ/寛永初期〜

「見返り美人図」 菱川師宣 

(部分)17世紀

兵庫髷は唐輪が変化した髷で、元々は遊女の髪でしたが、江戸時代前期の寛文(1661-1673)初め頃には一般の女性にも普及していたと考えられます。頭頂に高く輪を作り、残りの髪を根元に巻いた髪型で、初期は輪も根元も大きく結われていました。

兵庫髷の起源については、摂津兵庫の津の遊女が結び始めたという地名に因む説が通説となっていますが、大橋柳町の兵庫屋という遊女屋から始まった、播州の兵庫産の片手桶に形が似ているため命名されたなど、諸説あります。

「立美人図」 (部分)

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